鬼滅の刃の大ヒットから考える少年漫画への大きな懸念
鬼滅の刃が大ヒット。
『ガンダム』『エヴァンゲリオン』『君の名は。』に類する社会現象といってもいいだろうというくらいのヒットです。
※このブログでは社会現象をターゲット層(少年少女)以外の社会人やお年寄り、小さな子供にも名前や見た目くらいは知られている。そしてそのスパンが短い間で起きた。という定義をします。
テレビで紹介され始めた時期から見ましたが、私の個人的見解をいうと「つまらないというわけではない」という感想です。
それでもこの大ヒット。
ヒットの要因調べてみると、ジャンプを含めた『少年漫画』という文化の危機ではないかと思い始めました。
このブログではヒットの要因をキャラクターや、物語の良さなどから以外の観点から見てみようと思います。
ヒットの要因を軽くおさらい
なぜヒット作なのか?これを解説したものはテレビなどのマスメディアとブログなどで変わります。
マスメディアではキャラクターの深さ、家族愛、ストーリーのすばらしさを語ります。
アニメ系のブログではufotableによるアニメが火付け役だ。SNSでのヒットが一番の要因である。何故ここまで人気なのか分からない。という話題が目立っている気がします。
その中でも定説になっているのは、
目立たない人気だった
↓
アニメのクオリティが良かった
↓
それまで売れていなかった原作が一度に売れた
↓
コミック売り上げが急激に上がり話題に
↓
そこから改めてアニメの視聴者数が増えSNSでも拡散
↓
大ヒット
という流れがあったことが要因の一つです。
もちろんここまでのヒットに至るためには原作のストーリーの良さ。キャラクターの深み。王道の展開。アニメのクオリティ。アニメの現代にあったスピード感。様々な方がブログで話をしていたこの作品の素晴らしさは数多くありますがそれも全てが欠かすことのできない前提条件でしょう。
視聴者層の広さ
ヒットの要因の大きな点の一つであるアニメの話で、気になる点があります。それは深夜枠のアニメということです。
これまで少年漫画の王道であるジャンプ漫画のアニメ化では18時などのアニメプライムタイムのものが人気な印象です。しかし鬼滅の刃では深夜枠です。暗い雰囲気、グロもある描写など家族団らんで食事を囲んで見るものではないということから深夜の放送は当然の配慮です。
そして深夜アニメになることからジャンプ卒業世代が「ジャンプ原作でしょ、見なくてもいいや」というマイナスインセンティブを排除したことが良かったのかもしれません。
もう一点は女性人気です。
このリンクはアニメイトタイムズのアンケートです。ここからも分かる女性の投票が多いことが分かります。
投票するということはどういうことでしょうか。
アニメイトタイムズを見ている全体の母数もありますが、是非投票をしたいという気持ちの盛り上がりがないと投票するという行動にまでは至りません。
つまり、投票が多いということは、それだけ鬼滅の刃が心に刺さったことを意味するのだと思います。
ここからは私の個人的見解ですが、男性は状況の変化にワクワクし、女性は関係性の変化に心を躍らせることが多いのだと考えています。
状況の変化とは新たな敵の出現、新しい問題の出現と解決法の発見(新技)、本人の成長による敵とのパワーバランスの変化などです。
関係性の変化とはそのままで、人と人の関わり方、上司部下など社会的ステータスの変化、友達から彼氏彼女への変化、人間的成長の変化などがあげられます。
鬼滅の刃では多くの回想シーンによる人間性の受け取り側の変化、鬼狩りと鬼である生き残った家族の関係性。などのキャラクター性が刺さったのかもしれません。
少年ジャンプから少年人気、アニメで大人からの人気、ストーリーやキャラクターから女性からの人気。全体のパイが広がれば好きな人が出てくる人もそれだけ増えます。
様々な層からの人気を得ることに耐えられる作品であることがヒットの要因の一つでしょう。
同じようなヒット作を出すための方法
さて、こういった作品を生み出すためにはどのような作品つくりをすればいいのか。
鬼滅の刃ではアニメとコミックの売り上げのタイミングなどもあり、運の要素が絡むのでそこは置いておいて、純粋に物語の内容のみで考えてみます。
世界観を小出しにして次々に新しい状況を出現させていく、女性人気のための深いキャラクター性を演出するしていく。男性人気女性人気ともに共通している要因である『登場人物の成長』。
これは「変化前」があって「変化後」がある、つまりある程度の物語の長さが必要です。
ここまで単純な話ではありませんが、最低条件としては必要ではないかと思います。
では、そんな作品をたくさん作りましょう。いえ、出来ません。特にジャンプは紙面が限られているので人気がないと打ち切られます。
鬼滅の刃は何故生き残れたのでしょうか。
タイミングと枯渇感
鬼滅の刃は特に目新しいキャッチさやとんでもないアイデアは無いように思います。これまでジャンプでそこそこヒットしているようなものはまず『一つの大きな嘘』アイキャッチにして、それを肉付けしていって物語として展開していくものが多かったと思います。
『トリコ』では美食ハンターや強いものほど美味しいという設定、『シャーマンキング』では霊の力を借りて問題解決するシャーマンという存在。など、面白そうな設定だなと思わせることによって連載初期の人気を保ち成長などを描くことで人気を得てきました。
鬼滅の刃ではどうでしょうか。
鬼によって家族を殺され妹を元に戻すダークファンタジー。
何度もこすられ使い古されたちょっとした小ネタでも出てくる設定を主軸としています。
そもそもジャンプとしては珍しいタイプの暗めのストーリー。人気がなければそのまま打ち切られても不思議ではありません。
途中で善逸と伊之助の登場で面白さが巻き返されますが、それでも初めのころに順位が低迷していたのは事実です。
もちろんそこまでの画面作りの上手さや迫力、ストーリーの上手さもあります。
しかし、それは2016年から連載していたので残れたということもあるかと思います。
下記は連作開始時のジャンプの作品一覧です。
鬼滅の刃
暗殺教室
ONE PIECE
ゆらぎ荘の幽奈さん
ハイキュー!!
ブラッククローバー
左門くんはサモナー
火ノ丸相撲
僕のヒーローアカデミア
ニセコイ
背すじをピン!と〜鹿高競技ダンス部へようこそ〜
トリコ
ものの歩
斉木楠雄のΨ難
食戟のソーマ
こちら葛飾区亀有公園前派出所
銀魂
ワールドトリガー
BLEACH
磯部磯兵衛物語〜浮世はつらいよ〜
人気作も多いですが、その後終了した作品も多くその後の新連載もそれほど巨大になったタイトルはパッと見ありません。
人気作がどんどん減っていき新連載から後を追いかけられない。次のヒットの枯渇感から生き残れたとも言えます。
話は少しズレますが枯渇感でいえばアニメのヒットでも同じようなことが言えると思います。目立ったアニメがない中でそれほど注目されていなかった漫画原作がufotableのハイクオリティーさで一躍脚光を浴びたという形かと思います。コロナの巣ごもり需要も要因の一つかもしれません。
懸念と期待と
これまでの少年誌、特にジャンプは変わったキャラクターや奇想天外な設定など、言ってみれば「出落ち」のようなものになりかねないアイデアで連載初期の人気を獲得してきました。
これはアイデアが出尽くしてきて少年漫画というジャンルが飽きられてきた予兆なのかもしれないと考えてしまいます。
もうこのまま「よくこんな設定を思いついたな!」という漫画には出会えないのでしょうか。
そう考えると非常に残念です。
鬼滅の刃ではこれまでになかったような珍しい突出した設定などはありません。どこかで聞いたことのあるようなものをうまく使って丁寧に仕上げています。
また、仮に初期の人気のみを参考にしてすぐに打ち切るという方式を緩和させるのなら、ある程度流れが出来るまで打ち切らないというのならば、打ち切りに怯えて無理やりな展開を作らず、しっかりした作品が現れるのかもしれません。
しかし、紙面という特性上ウェブで公開される有象無象の作品群には太刀打ちできないのではとも考えます。
ジャンプ+などを使って野球の一軍、二軍のように成長枠から紙面へ復帰というのもアリかもしれません。
現在ジャンプを含め連載少年誌の売り上げ部数は落ちています。数々の幸運から成り立っている鬼滅の刃の異例な大ヒットですが、少年漫画という文化の「灯滅せんとして光を増す」にならないことを祈っています。
転生したらスライムだった件アニメ感想
※今回は個人的な批判や感想で事実では無い妄言多めでお送りします。
小説家になろうの作品が好きでそれ専用のブログもたまに書いているくらいよく読んでいました。
もちろんこの転生したらスライムだった件という作品もいつかアニメ化するのではないかとずっと期待していましたが、まあなんだろう、あれです。
なんというか悪く無いけど、全体的に時期が悪いかなと思いました。
なぜ今になってアニメ化?
人気が出ればアニメされるのは昨今の作品として当然のことで、転スラに関しては様々なメディアで作品が展開されています。
展開されまくっています。
アニメ化という本丸がなぜ無かったのかというほどでした。
そう、少し遅すぎると思います。
出来れば、いかにもな「なろう系」と呼ばれた異世界転生・転移チートもののトップバッターをいってほしかったです。
異世界はスマートフォンとともに。
デスマーチからはじまる異世界協奏曲
で正直評判を落とした、もしくは異世界チートものの期待ハズレ感が出てしまった後にやるのは厳しいのではないかなと思っています。
声優はこれでいいのか問題
さて、今回の転スラアニメ化では特に騒がれているが声優の演技が棒読み過ぎるのではないかという話をよく目にします。
実際アニメを見てみると、まあ、確かに棒でした。
しかもこの主人公の声が聞こえるたびにアニメの世界から浮いて聞こえるというレベルの棒っぷりに感じてしまいます。
本来web小説は説明ゼリフが多目な事が多く、上手く演出しないと主人公がひたすら説明役になってしまうという危険があります。
いっそのこと量が多いのなら延々と主人公に語らせて背景は不思議な模様で埋めてしまおうという物語シリーズという野心作もありますが……。
そのため説明役や語りに耐えられる声優を使うべきだったのではないかとも思ってしまいます。
反論としては、単にお前の好みではない声だったってことだろ!という反論がありそうですが、すでに小説を複数回読み、漫画を読み、その上で新しい声のイメージを押し付けられた感があります。
それも含めてアニメ化の時期が少し時期が遅かったのではないかと思います。
声優についての疑念
そんなことが気になってしまったので声優の声の責任者である音響監督を調べました。明田川 仁さんというそうです。
ベテランでそれこそ人気作品にいくつも携わっている方です。
通常主役級の声優キャスティングでは音響監督はもちろん、監督や演出、スポンサー、原作者等関係各所と相談をして決められるものだと聞いています。
よく事務所のゴリ押しがどうとかの話に持っていきたい人がいますが、そんなうわさ話がしたいのではないです。そしてこんなベテラン音響監督がいて不満の残るキャスティングをしないのではないかと思っています。
ここから先は完全に想像ですが、あまりにチート系なろう原作の評判がいいものではないことが多くて、語りが上手いリムル役としてもぴったりな候補が出てこなかった。もしくは別メディアの展開の可能性から時間の取れて単価の安い若手が起用された。
なんてことかもしれません。
この想像(妄想)が合っていればどちらにせよ知る人ぞ知るというような人気作を多方面での展開をした後、いまさらながらにアニメ化したという時期が悪いのではないかと思ってしまいます。
演出についての疑念
主人公の声が棒読み感のある理由としてはもう一つ、演出の影響もあります。
語りがやたらと多かったり、メリハリなく物語が進むとやたらと気になるもの主人公の声が浮いている感に拍車をかけていると思います。
別の作品で上手くやっているなという演出としては、物語の進行上必要な情報を背景などの絵だけで表現し、主人公たちは別の話題をしているのだけれど副音声の様に脇役が重要なことを話していたりすると、上手い演出だなと感じます。
特に転スラの構成上どうしても伏線や世界観の説明が大量に存在するのでアレを言わないとコレを言わないとというように説明セリフが長くなりそうです。しかし、下手に端折ってしまうと原作ブレイカーとしてつるし上げになってしまいます。
その結果、「漫画世界の歴史」のような物語の概要や物語上の架空の歴史をひたすら撫でていく無味無臭なものになってしまう危険もあります。
しかし、監督はこれまでのキャリアがあり、そんなことも承知のはずです。
じゃあどうすればいいんだよ!と言われてもわかりませんがまたここから想像が入ります。
エイトビットとしては時期が早かった説 です。
エイトビットといえば一人原画で有名というあまりよろしくない噂話がネットで出てきます。
転スラは物語の基本構造がドラゴンボール寄りなので、やはりアニメ化するにあたって力を入れたいのは戦闘シーンなのかなと思います。
そんな戦闘シーンのあるアニメで一人原画になってしまったことのある制作体制の延長線ではさすがに無茶なのではないかと思ってしまうことも無理ではないかもしれません。
※改めて書きますがこの辺り完全に想像です。
色々なアニメータからの手助けの折衝などで細かい部分まで満足に演出がとれていないのであれば全体的にメリハリが少ない出来上がりも納得するのですが。
結論としては悪くない。時期がちょっと悪いだけ
ここまでグダグダと愚痴の様に欠点を書いてきましたが、基本的には転スラはweb版からのファンなのでアニメ化はとてもテンションが上がります。
加えて作画も安定していて、アニメ第1話の、小説だからこそ表すことのできる表現というものを見事に画像化することに成功しているとも思います。
現状まだ前半戦しか放映されていません。アニメ化のキモとなる戦闘シーン多めの回がこの後待っています。それを楽しみにしているところです。
声優だってただアニメ化初期によくあるイメージが違うパターンでしょう。きっとこの先リムルの声はこれじゃなくちゃ!となるに違いありません。
だからこそ残念な部分が見え隠れしてしまっていることが少し悔しく思います。
小説を読み、コミカライズも読み、ここまで盛り上がった読者の気持ちがちょっとだけ制作者の気持ちを超えてしまったため、出てきてしまった愚痴です。
そういった意味でもアニメ化の時期がもう少し早ければ(もう少し遅く飽きている状態だったら)こんなことを思わずに見ていられたのかなと考えてしまいます。
アニメに関わる他メディアへの展開
漫画からアニメへ、小説(ラノベ)からアニメへ。
これらはよくある流れではありますが、アニメから実写や舞台への進出などもあります。そんな他メディアへ進出の利点や欠点と、どのように展開していけば素晴らしい作品が世に出てくるのかの考えを述べていきます。
漫画や小説(ラノベ)からのアニメ化
今期(2018年夏期)の話題になっているアニメの一つに「はたらく細胞」があります。
「はたらく細胞」とはうっかり元気な「赤血球AE3803(c.v.花澤香菜)」が人の体内で病気にさらされている現場に立ち会って視聴者に体の中でどんな細胞が働いているのかを知っていくという話です。
この「はたらく細胞」は2016年に宝島社が発表している「この漫画がすごい」にランクインしておりその際に私自身も読んだことがありました。
その時の正直な感想としては『ふぅ~ん、あまり面白くはないけども、題材としては目新しいな』という程度でした。
「はたらく細胞」の凄さ
しかしアニメはすごい。
特に素晴らしいと思ったのは第2話の冒頭部分。
見ていない方は是非見ていただきたいのですが、このはたらく細胞内の今期大注目キャラクター血小板の人気を爆発させたきっかけを作ったシーンの一つです。
この作品内では血小板が幼女として描かれているのですが、この小さい女の子頑張って階段を下りている姿がなんとも可愛らしいです。
小さい子が一生懸命何かをしているシーンというのはこれまでのアニメの中でも結構出てきます。そしてそのあどけない動きを見守るシーンは失敗しがちです。
なぜなら最終的には、「小さい子が階段を下りきる。」というなんでもない結果しか残らないからです。
そのため他のアニメでは、短い尺で済まそうとしておざなりになってしまうか、妙に間延びした時間を埋めるべく幼女声の声優がヨイショヨイショと頑張っている声を出して視聴者をしらけさせてしまう微妙なシーンが出来上がります。
はたらく細胞ではこの何でもないシーンを全体像、階段に差し掛かった足の近影、大人である赤血球のハラハラしながら見守っているというカットを挟み込むことによって上手く単調にならないように、なおかつ見ている視聴者も赤血球と一緒にハラハラさせるという状況を作ることに成功しています。
鈴木健一監督率いるデビプロの皆さまブラボーです。
メイの何でもない動きを観客に楽しく魅せる「となりのトトロ」の宮崎駿ばりの素晴らしさではないかと思っています。
このチームの皆さまなら「よつばと!」の原作をも使いこなせるのではないかという期待すら持てます。
アニメ化によるアク抜き
それともう一つ、この「はたらく細胞」ではアニメ化によるアク抜きがいい影響を及ぼしているのではないかと思っています。
先ほども書きましたが、原作は正直言ってしまうとあまり心を動かされませんでした。
漫画では解説部分で文字が多く、絵にも癖がありました。
その部分が長時間読ませるには辛いと判断して2巻まで読むことを諦めさせました。
アニメの制作では一般的に「キャラクタ-デザイン」⇒「原画」⇒「動画」⇒「撮影」で進められます。
キャラデザで決まったキャラクターを基に原画マンがシーン毎に書き起こしてその隙間を埋めるように基本若手のアニメーターが書いていきます。
雑な説明なので詳しくはググってください。
何が言いたいかというと、初めの段階のキャラクターデザインというのは言ってみればキャラクターの仕様書であり、アニメ化に際して使いやすくするという、キャラクターの再定義の作業になります。
そしてこの時点で原作の持っている絵の癖が抜けているということです。
(もちろん、作品によってはアニメ化によって悪い方におかしくなったり、違和感が出たりする場合もある)
さらにアニメ化に際に体内の説明文とセリフが同じ画面に出ることを防ぎ、背景の書き込みを色付きにすることでシンプル化してメインキャラクターに視線がいきやすくなっています。
単純に言うとアニメ化したことで画面が見やすいのです。
原作が題材はいいのにそれほど大人気にならなかった理由はここにあるのではないかと思います。
アニメ化したことでおかしくなったアレ
アニメ化して炎上してしまったものもあります。
「くまみこ」です。
「くまみこ」は原作もとても面白く、アニメも最高でした。
しかしながら最終回ではとても後味の悪い終わり方になってしまったのです。
これには多くの批判や困惑がネット上で賑わせましたが、実はほとんどのシーンが原作であったものなのに、組み合わせ方がおかしかった為起きたことでした。
最大の要因は1クールで一つの落ちを作らなければいけないというアニメ化の制約のために起きたことかと考えています。
アニメ化に際してアニメオリジナルの要素である「人間の言葉を話すヒグマのナツが大都市仙台で活躍する」という事象を入れ込み、残りのシーンを原作から引っ張ってきて組み合わせたらおかしな、後味の悪い感じが出てしまったのです。
くまみこの様に原作を何とか1クールで区切りをつけようとした事で起きる悲劇があります。
別のメディアである「漫画・アニメ」から「実写ドラマ・映画」への展開
今期(2018年夏期)のドラマの一つに「この世界の片隅に」があります。
私はこの映画が大好きで大好きです。面白すぎて思わずこのブログでも感想を書いてしまいました。
animekennethsan.hatenadiary.jp
そんな「この世界の片隅に」ですが、実写化です。
実写ドラマです。
第1話からすでに改変されていて現代の謎の結婚前らしい男女が出演しています。
改変です。
戦前(メイン)部分の改変が無いだけありがたいですが、なんなんだろうなという感じです。
実写ドラマの制約
実写ドラマの場合にはアニメ化と同様1クールという制約があります。
さらに映画やアニメ化よりも厳しいのは視聴率があります。
初回を含め初めの方の視聴率があまりに悪い場合には最悪12話が11話に減らされるなどペナルティもあります。
そのためか劇場アニメでは子供時代をある程度描かれていたのに実写ドラマでは始めの方から話の展開のかなり動いています。
主人公の日常を描いてから少しずつ変化していくという感覚があまりありません。
残念です。
また、実写映画の場合にもアニメに忠実になればなるほどお金がかかるという制約があります。「銀魂」や「ジョジョ」などは衣装やメイク、CGにお金がかかります。
そのためシーンを入れ替えたりおかしな流れを作ったりとやりくりしている間に話の本筋がおかしくなるということもよく見受けられます。
逆に忠実になりすぎて会話やシーンの「間」が実写としてみると違和感を出してしまうこともあります。
また、たくさんの人をが関わることで作品の意図からずれてしまうこともあります。
例えばドラマ版「この世界の片隅に」宣伝に関して『二人に待ち受ける戦争の魔の手』なんていう言葉をCMで煽り文句として使っていました。
アニメ映画ではこれまでの戦争を描いた作品とは違い「説教臭くない」という点も評価されています。これまでの戦争ものの物語のCMを作ってきた制作会社のクセや流れで作ってしまうということも、アニメのファンとしては見ていて辛いです。
他メディアへの移行でどうすれば上手くいくかの提言
他メディアに行くことが全て悪いこととは決して言いません。
メディアが変わるとより面白くなるということもよくありますし、小説や漫画からのアニメ化は一つの箔付けであり視聴者、ファンの数も劇的に増加します。
対して実写化に関しては比較的に失敗する割合が多い気がします。
他メディアへの展開の場合、実写だろうがアニメだろうが大勢の人間が関わることになります。それに伴いおおざっぱな流れとしては「出資者・プロデューサーなどで企画を作る」⇒「制作会社・監督を選任」⇒「その他の制作補助を決定」⇒「実際の作成」という流れが多いかと思います。
では何故アニメ化と実写化に違いが出るのでしょうか。
これは以下の要因があるのではないでしょうか?
「漫画・小説」から「アニメ」へ
「漫画・小説」から「アニメ」への展開は大枠でいうと同じサブカル文化です。
アニメ監督は大体漫画や小説なども好きです。
制作会社の人間も漫画を読んだことがないという人はいないでしょう。
つまり企画段階で話し合われたことや原作の価値観に対してくみ取りがうまく良質なものができやすいのかなと思います。
「漫画・小説」から「実写」へ
それに対して実写の場合は必ずしも原作が大好きだというわけでもありません。
実写の監督は普段実写のドラマや現代劇を作っています。そんな中、制作委員会から漫画・アニメ原作の話を振られます。
普段の作り方から多少は逸脱した、価値観もおかしな世界観の物語を制作することになります。
そこに情熱はなかなか入れ込みにくいのではないでしょうか。
中には何でおれがこんなものを作らなければいけないのか。と考える監督もいるかもしれません。
こうすれば上手くいく!?
つまり、最終的には熱意・熱量の問題なのではないかと思っています。
自分の好きなものを最も面白い形で遺したい。その熱意が作品に反映されるのではないでしょうか。
では、どうすればいいのか。
現在ある「企画」⇒「監督の選任」ではなく、「監督の選任」⇒「出資者を集める」の流れにするのが一番ではないかと思います。
劇場アニメの話になりますが、2016年は「君の名は。」「この世界の片隅に」が大ヒット、高評価でした。
この二つ、実は監督主体です。
「君の名は。」の場合はプロデューサー川村元気さんが新海誠監督を見出して話を進めました。
「この世界の片隅に」は片渕須直監督がどうしても作りたくてクラウドファンディングでお金を集めました。
両方とも熱意バリバリです。
まとめ
この世を面白い他メディア展開で埋め尽くすためには、「〇〇を作るという企画」ありきで(人気が出ているから、売れそうだから)というのをやめて、〇〇を作りたいという監督をプロデューサーが見つけ出し出資者(制作委員会)を付けるという流れにするのがいいのではないかと私は考えます。
ネットワークがITのおかげで作りやすくなった今、力のある監督とのコネクションやお金集めも昔よりは多少障壁が低くなっているのではないでしょうか。
「人気だからとりあえず作る」から「作りたいから人がいるから作る」になっていってほしいと切に願います。
最後に一言、「くまみこ」はのあの事件はしょうがなかった。
「たつき監督を信じろ」の秘密
特に秘密というものはありませんが、最終回直前の謎の盛り上がり「たつき監督を信じろ」という言葉についてネット情報の波にのまれる前に備忘録として残しておきます。
「けものフレンズ」のSNSでの雰囲気の変化
2017冬期は「けものフレンズ」という作品はネットやSMSによってかなりの人気を得ました。
何故ここまで人気になったのか?、この物語に含まれる謎は?
というのは他の評論家や考察班に任せるとして、ここでは第10回目くらいからぼんやりと形成されていたネット上のざわめきや、空気感についてを書き残している人が少なかったので書いていきます。
元々「けものフレンズ」は1話の時点で全く見向きもされなかったアニメでした。
2017年冬は新作だけで45本もあり、視聴者としては出来るだけ数を減らさなければいけない状況てす。
そんな中でフル3DCGのけもの好きな人向けというかなりマイナーなジャンルは即1話切りの対象です。
私自身も初見ではどうしてこれが五分アニメではないのかと驚いた記憶があります。
その風潮が変わってきたのが3話、4話です。
この頃になると段々と世界観についての背景が見えてきます。
この時点になってやっと、それまで見続けてきた人がこれは面白いぞとネットやSNSで声を上げ始めます。
そして興味のある者はみんなフレンズになった9話10話頃、そろそろ最終回に向かって話の風呂敷をたたみ始めなければいけないという頃、作品内ではこれまでに増して不穏な雰囲気を出し始めました。
その嫌な雰囲気を察知してネット上では「あれ?もしかしてこの物語は鬱エンドもあり得る?」と思い始めます。
そうです。「たつき監督を信じろ」という言葉は結局のところ、監督の類まれなる監督のバランス感覚の持ち主である証拠だと考えます。
「けものフレンズ」の魅力
ここで改めて「けものフレンズ」の魅力の話になりますが、メインストーリーであるカバンとサーバルのロードムービーを通して優しい世界に浸るという、何も考えずに楽しめるという側面と背後に見え隠れするディストピアな雰囲気から考察できる余地があるという側面で成り立っています。
魅力①「優しい世界」
一つ目の魅力であるメインストーリーですが、かなりシンプルかつ正統派な物語です。主人公であるカバンちゃんの成長ストーリーであり、自分自身を見つけ出す過程で様々な人と関わるロードムービーです。このメインストーリーの中のキャラたちのやり取りで人をほんわかさせます。「優しい世界」です。
この世界観を構築させるための要素としてもちろん動物を擬人化させて純粋に(頭悪く)させています。
さらにもう一つ重要な要素としてはキャラクター造形でしょう。「けものフレンズ」はマルチメディアで展開しているプロジェクトです。ただ、このプロジェクトは他の物とは違うところが決定的に異なる部分があり、全てのメディアでキャラクター造形が変わっているという部分が特徴的です。
具体的に見てみましょう。
アプリ版は2.5頭身の完全ディフォルメキャラ、漫画版はそれと比べるとかなり大人びた6~7頭身です。
一方アニメ版では4頭身ほどのどちらともつかない幼児体系の様なキャラになっています。さらに顔つきは目が大きく、鼻が無い全体的にのっぺりとした印象になっています。
アニメではフル3DCGなので変にリアルにするよりのっぺりとした方が気持ち悪さが無いということもあるでしょうが、やはりこれも戦略の一つではないかと思います。
このキャラ造形の表情がシンプルな感情を表すのに適しているのではないでしょうか。
さて、このキャラの顔、どこかで見覚えがあります。
幼児の様な、普段の生活の中で凄さを見つける天才、行動を見てて飽きない、
これってよつばとに似てますよね。
「けものフレンズ」は幼児達のワイワイ遊んでいるのをほほえましく見たり、冒険するのを見てハラハラしてみたり、カバンちゃんの成長に感動してみたりと「はじめてのおつかい」的な話の魅力というものがあります。
疲れた生活に、深夜ぼんやりと見れるアニメは思っている以上に癒されます。
魅力②不穏な雰囲気
二つ目の魅力として、そこかしこに不穏な雰囲気が散りばめられています。
EDの廃墟になった遊園地や話の途中ふいに出てくる人類は滅びた的なセリフやフレンズの現れ方がさらっと入ってきます。
このさらっとした伏線の入れ具合のタイミングが絶妙です。
一例になりますが、明かされた謎の一つにカバンちゃんは髪の毛から出来たヒトのフレンズということが分かりました。
この伏線として途中途中に何度もセリフこの世界はヒトが滅びた後の世界だということが示唆されてきましたが、私が気になっていたのは一話の高い崖を降りるですでに伏線が張られていたことです。
サーバルちゃんより体力の劣るカバンちゃんが3メートル程の崖から滑り落ち、これは怪我でもしたんじゃないか?と思った時、キラキラとサンドストーンのパワーが出ていて怪我も無く服が擦り切れた様子もありませんでした。
まだまだ世界の秘密が明かされていなかった一話の時点で私としては、コレは世界観としてサンドストーンで登場人物全てが守られていたのか?、それともこのカバンちゃんがサンドストーンのパワーに守られているのか?と疑問に思いましたが12話や12.1話などを見る限りフレンズはサンドスターのパワーを使えることが分かります。
ここからカバンちゃんはヒトのフレンズだった伏線になっていたのだと分かります。「けものフレンズ」は世界観や設定がしっかりしていることに気づきました。
単に優しい世界の幼稚園を見ているだけでなく、不穏な雰囲気を散りばめるようにして伏線を入れているこのバランス、これが素晴らしかったのだと思います。
結論
特に12話のシリアスとコメディのバランス、前半の真剣な戦いやラッキービーストの自己犠牲、後半のラッキーを見つけて思わず投げてしまうサーバルの行動やみんなで打ち上げしている光景。どちらか一方に偏らずシンプルなメインストーリーはしっかり完結させつつも謎を考察できるという素晴らしいバランスが保てています。
「けものフレンズ」という作品はもちろんこれまでの「マドマギ」の経験(前に書いた記事参照)も下地になっていますが、この監督のバランス感覚によって私たちは最終回まで悲しい話になるかもしれないし、ハッピーエンドで終わるかもしれないというどうなるのか分からないハラハラ、ワクワクさを持たせ続けることに成功しています。
繰り返しになりますが「たつき監督を信じろ」とはたつき監督のすさまじいバランス感覚によって生み出され、最終回を見て安心した視聴者が使わなくなり消えて行った言葉だったのです。
「たつき監督を信じろ」という言葉を後から知って何のことか分からない方はリアルタイムで見ていた方に聞いてみましょう。
そして過去のたくさんの名作と言われるアニメだけを見るのではなくてリアルタイムのアニメを見る楽しみもあるのではないでしょうか。
今の時代はリアルタイムでアニメを見て、SNSなどから分かる雰囲気までも楽しむのが最もアニメを楽しめる時期に来ているのかもしれません。
「けものフレンズ」で気づいたけど「まどマギ」などを経てアニメは一周したのではないか
最近話題の「けものフレンズ」。
すごーい!、たーのしー!
と思うのはこれまで作られてきた、たくさんのアニメが下積みとして効果を発揮しているのかもしれない。というお話です。
あまりに流行っているから見てみることに
4話が終わった時点で何やらネット界隈で騒がしかったので、4話までを”ながら見”してみました。
するとあらビックリ!1話などは苦痛でしかなかったんですが気が付くと何とも言えない妙な魅力に取り込まれていたのです。
4話を見た時点でもう一度1話から見たくなるというのはこれまでなかなか無い経験です。(ちなみにまだ3周しかしていないのでガッツリハマったという訳ではありません。)
「けものフレンズ」何が面白いの?
「けものフレンズ」の魅力は何なのか。
色々と考えていましたがやはりお互いに褒め合う優しい世界だからではないでしょうか。
よく使われている言葉として「IQが下がる」というのを目にします。
幼児向け番組の様な裏表のない間延びした棒読みセリフによって徐々に思考回路のめぐりが落ちていきます。
楽しいことには「たーのしー」、興味があることには「たのしそー!」他人(他フレンズ)の得意なことに対しては「すごーい!」と、もうあからさまに褒めます。
お互いを尊重しまくりです。
しまくりんぐです。
これまでの日常系でも同じように視聴者を喜ばせる『完全なる優しい世界』的なセリフがあったはずですが、この「けものフレンズ」は異様なほど心に刺さってきます。
なぜでしょうか?
その理由はやはり主人公を除くキャラクターのことごとくが『バカ』だからではないでしょうか?
これまでにあった日常系ではどんなに完璧な優しい世界観であったとしても、視聴者が聞いて喜ぶような言葉は、「人間」が喋っているということに変わりはありません。
人間には少なからず思惑というものがあります。純粋な子供キャラにだって何かしらの考えを基に言葉を発しているのです。(むしろアニメキャラの場合は腹黒小学生なんてのも多いです。)
一方、けものフレンズに出てくるキャラクターは動物がフレンズ化した生き物で、人間とは違う思考回路を持っています。基本的には深く考えないキャラばかりなのでイヤミの無い雰囲気が漂ってきます。というより興味のあることしかしません。
だからこそ言葉を額面通りに受け取れるのではないでしょうか。
『完全なる優しい世界』な言葉は普段私たちが欲している言葉です。そんな言葉が飛び交っている世界にいけたら嬉しいなぁという気持ちは、学校や会社で褒められるどころか、逆にけなされ、怒られ、ツライことに耐えている現代人にとって一服の清涼剤になっているのかもしれません。
なぜキャラクターはバカばかりなのか?
これは単純に主人公との対比という制作の都合上的な面もあるのではないかと思っています。
「けものフレンズ」のキャラクターは元々動物です。
フレンズ化して喋ることが出来るようになり、身体が女の子になって、なおかつ動物だった時の特長を引き継いでいます。
これによって登場人物みんなが助け合う事によって物語を紡いでいきます。
そして動物は様々な特技を持っています。
サーバルはジャンプ力が凄い。
カワウソは手先が器用で家を作れる。
アルパカは山登りが得意。などなどです。
さて、主人公のカバンちゃんは何が得意なのかというと、
人間なので「頭がいい」ということがメインになってきます。
頭がいいという特徴を物語として最大限発揮させるにはどうすればいいのかと考えれば答えは出てきます。それ以外の登場キャラの頭を悪くすればいいのです。
主人公が人間で、謎のジャパリパーク内を探検していく途中に、人間らしい「頭の良さ」を特徴として出していくということはストーリーを作るうえで必然かもしれません。
そんなこともあり、人間と同じように喋れるけど、喋れるからこそバカさが異様に際立っているキャラがしっちゃかめっちゃかしていく物語が、棒読みセリフと相まって印象深いものになっていくのだと思います。
「けものフレンズ」は次回への引きが強い
単に『完全なる優しい世界』ではここまでの人気は出なかったでしょう。
「けものフレンズ」は、その魅力のもう一つの側面である『不穏な雰囲気』によって続きが気になる物語になっています。
ネタバレ全開で行きますが、4話では人間は滅びているという言葉が出てきます。
人間であるカバンちゃんの迷い込んだジャパリパークでは人間がいた形跡が至る所にあります。しかし、メンテナンスが完ぺきではない上に老朽化し、朽ち果てている施設がほとんどです。
さらにエンディングの閉演後の遊園地などにより、不穏な雰囲気が溢れ出ています。
実際に人間が滅びているかは分かりません。単に人間がジャパリパークを放棄しただけかもしれませんし実際に人間が滅びているデストピアかもしれません。
仮に人間がジャパリパークを放棄しているだけなのであれば、その理由はなんだったのか、なぜカバンちゃんは迷い込んできたのか。
もしくは人間が滅びているのであれば、カバンちゃんは何故生き残っているのか。
どちらにしても謎は残ります。
ただ、ここまで緩い雰囲気のアニメだとそれすらも明かされず、どうでもいいこととして扱われるかもしれないという危険性もあります。
その場合、アニメが終わった後もモヤモヤとし続けるでしょう。
このような人間が滅んでいるかもしれないという情報を小出しにしつつ、謎は深まるという展開になっているので次回が気になります。気になってきます。
ただでさえのんびりとした『完全なる優しい世界』に浸ることができ、さらに次回以降の残された謎によって後を引くこの「けものフレンズ」は人気に出るのも頷けます。
そういった意味ではNHK教育並みに情報量が絶対的に少ない物語でありながら、話の骨格はしっかりとしている、ロードムービー的な良くできた物語であるとも言えます。
けものフレンズは他作品に比べ謎展開が優れているのか?
さて、本題です。
これまでは単に『シアワセ系』アニメというだけえではない謎が満載という物語が、
ここまで続きを気にさせるアニメは無かったか?というと、そうではないと思います。むしろ純粋に物語上だけで考えるとより優れた謎を残しているアニメは山ほどあったのではないでしょうか。
というよりも、けものフレンズは先ほども書いたように情報量が異様に少ないです。
CGでの制作ということもあり、他の作品と比べてお金があまりかかっていないように見え、(それでも莫大な金額だと思いますが)さらにセリフは棒読みだったり、声優と音響監督の遊び心がほとばしるセリフ回しだったりと完全にシリアス100%な雰囲気のアニメでは決してありません。
このような背景を持っているため、視聴者はこんなことを考えます。
「もしかするとキルミーやあいまいみーのようにそんな設定は置いておいて作品を楽しんでくださいパターンなのかもしれない。」
はい。
謎がまき散らされているにも関わらず、メタ的な目線で見ると「置いといてパターン」かもしれないと思わせている絶妙なさじ加減こそ今回の「けものフレンズ」大ブームの要因の大きな一つなのではないかと思っています。
アニメの見方について
これまで私たちはどのようにアニメを見てきたかについて考えていきます。
元々アニメというものは実写に比べると一段も二段も落ちるレベルの低い物語が大半を占めてきました。
アニメ=子供っぽい
そんな公式が成り立ってきたのです。
しかし、90年ころになると深夜アニメが台頭してきて、複雑な構成の物語が乱立します。
アニメにも関わらず、決して小学校低学年位の子供では理解出来ないような話も数多く出てきました。
子供向け、大人向け、中には原恵一による劇場版クレヨンしんちゃんのように大人も感動させるようなものも出てきます。
ドラマ顔負けのしっかりとした作りです。
適当に作ったものでは売れません。そのためある程度のパターンというものが出来上がります。
ロボットものだったり、ストックキャラクターものであったり、推理、サスペンス、恋愛、ホラー、SF、コメディなど様々なアニメが作られてきました。
多少人気作に引っ張られながらもアニメが増えていきました。
社会現象とまで言われた「エヴァ」。それにあやかり難しい内容のアニメが雨後の竹の子状態に作られます。
そのカウンターカルチャーのように「けいおん!」のような日常系アニメがまた乱立します。
電車男ブームなども重なり、アニメという文化は少しづつ市民権を得てきました。
人気が集まればお金も集まります。
集まったお金は業界関係者への優遇に行くのではなく、新しいプロジェクトへ向かいます。
このようにしてアニメは現在も粗製濫造されています。
ここまで数が多くなってくるとアニメの見方としては
人気作のみを追う、もしくはパターンを掴んで好みではないものだと分かったら視聴を中断してしまう
という見方が一般的になりました。
そんな中で例のアニメ『魔法少女まどか☆マギカ』が現れます。
「まどマギ」は「魔法少女」というストックキャラクターものとして見ていた人に衝撃を与えました。
少女向け魔女っ子ものと思わせて、実はかなりディープなダークファンタジーだったというアニメだったからです。
それまで1,2話でパターンを決めつけてしまう見方に慣れたアニメファンからするとかなり特異な作品でした。
90年代に流行ったシリアス展開アニメの考察というのは今でもネットの海に漂っていますが、魔法少女を考察しようと思う人は少なかったのだと思います。
(それでも脚本家や至る所に表れる異様な雰囲気を見れば分かることでしたが。)
「まどマギ」を得て私たちはあることに気づきました。
今のアニメはジャンルに関わらずどんな展開も許容されるものになってきている
ということです。
アニメというものは現在、「まどマギ」を経て一周しました。
まるで日本がアニメを作り始めた時の様な、先の展開がどうなるのかわからない、とてもワクワク出来る時代に来ているのではないでしょうか。
その意味では今に生きているのを幸せに感じます。
なぜ「けものフレンズ」は謎が謎として生きているのか
「サスペンス」という言葉を聞いたことがあるかと思います。
このサスペンスというものは不安定感、宙づりの状態を表します。
物語を作る上でサスペンスというと見ている人に精神的な不安や緊張感を与え、物語の中に引き込みます。逆にサスペンス状態を解除するには先にある答えを出せばいいのです。
つまり、最終回、ネタばらし、謎に対する回答です。
「けものフレンズ」の謎はどういったものでしょうか。
ジャパリパークとは?
サンドスターとは?
フレンズ化とは?
ジャパリまんとは?
人間は絶滅した?
なぜラッキービーストはBOSSなのか?
ラッキービーストと羽の関係性は?
そもそもカバンちゃんはなぜ「さばんなちほー」にいた?
これらの謎は7話視聴時点で謎のままです。
ここで先ほどの話が出てきます。
アニメというのは一見しただけではジャンルがつかめないこともある。という「まどマギ」による予備知識と、けものフレンズ内の謎による『不穏な雰囲気』。さらに省エネ制作による、製作陣の物語に対しての温度感の伝わらなさ。
これらが相まってこのまま単純な「シアワセ系」の物語になるかもしれないし、シリアスな人類滅んだエンドかもしれないという、どちらにも展開しそうな最高の『サスペンス状態』が作り上げられています。
というよりも、もしかすると先ほど書いたように、「置いといてパターン」として謎は明かされないまま投げっぱなしジャーマン方式すら取るかもしれないと考えてしまいます。
「鬱エンド」、「楽園エンド」、「ジャーマン方式エンド」という純粋な物語上の謎というだけでなく、メタ的にもサスペンスな状況がこの『けものフレンズ』ブームを後押ししているのだと思います。
終わりに
いないとは思いますがここまで読んでいるのにまだアニメ見ていないよと言う方は是非、謎が明かされる前に見てください。
最高にサスペンスな状況で見れるという幸せを味わえるのは後追いでは難しいです。
まどマギ3話までと一緒です。
長々と文章を書いてしまいましたがここまで約5,000文字も読んでくださりありがとうございました。
今日は火曜日。私はこれから8話を見てまいります。
別に世界観にハマっているとかじゃなくてただ、先が気になるだけですので。
それだけです。
ええ、続きが気になるだけです。
さらにお暇でしたらこちらもどうぞ
こんなに胸が苦しくなった映画はあっただろうか、いや無い「この世界の片隅に」の感想
思わず反語を使ってしまうくらいの胸の苦しさは初めてだと感じた映画でした。
「君の名は。」に続いて、やっと見たシリーズです。 あまりに人気なのでなんとなく見たくなかったのですが、もうほとぼりも冷めただろうと思い。遂に見てきました。
まぁ、二度目は見に行かないでしょう。(あまりに素晴らしすぎて悲しみが襲ってくると言う意味で)
「この世界の片隅に」の2017年2月映画館状況
やはり上映館数が「君の名は。」ほどは多くないためか、それなり人数が入っていました。
だいたい劇場の1/3位でしょうか?
ただ、何より気になった点はこれまで見た映画館の中でも客の反応が良かったことです。 笑いどころや泣き所で吹き出す声や鼻をすする声が聞こえてきました。
それとお歳を召した方が結構いたのも印象深いです。
「この世界の片隅に」を見る私のスタンス
私は暗い話が好きではありません。
バイト先の後輩がこの原作を読んでいたので絶対見に行きたいとずっと言っていたので、映画の存在自体は知っていたのですが、「どうせ戦争系の泣かせる話だろ」と思い、劇場に行く気はありませんでした。
しかし、ここまで話題になるとやはり見に行きたくなります。
率直な感想
辛いっス。
もちろん泣きました。
ただ、単に泣かせてくる悲しい系の物語では無かったです。
ところどころに笑える要素があり、日々の生活が楽しく、時に生々しく感じる場面があるので「火垂るの墓」が好きではない私も楽しく見ることが出来ました。 見た直後の印象としては淡々と日々を描いていくだけなのに何で終盤にこんなに辛くて苦しく感じるのだろう感じました。
あと、見てると疲れます。 なぜ見た後にどっと疲れが襲ってくるのか?
単純に戦争物だから見ていることがしんどいという訳ではなく、主に下の3つが理由だと思います。
①進み方
物語の進み方が結構スピーディーに展開していくことです。 主人公のすずが若い頃から戦争が終わるまでを描かなくてはいけないのでかなりポンポン進んでいきます。 追いつくのが大変です。
最近の流行でしょうか? 「君の名は。」や「シン・ゴジラ」などもそうなのですが、昨年ヒットした映画はわざと観客を置いて行こうとしているのではないかと思うくらいどんどん進んでいきます。
②具体的な言葉として描かれないエピソードがある
ちょっとした主人公たちの会話から話の流れを掴まなければいけないエピソードもいくつかありました。 例えば、すずの妊娠疑惑のくだりです。
顔を見合わせて「まさか!」となる部分では一言も「妊娠」という言葉が出ません。さらにその後、結局一人分のご飯という例え話でこの顛末を終わらせています。
よく考えてみていないとスルーしそうな会話で物語が展開していくことがありますが、このように細かい説明を省いていかなければ物語全体のスピード感が落ちてしまうでしょう。
③なじみの無い方言や古い言葉
疲れる理由としてはこれもまた大きいと思います。
例えば「こまい」なんてお言葉は日常では使わないですよね。 話の流れからなんとなく「小さい」という意味で使われているなと分かりますが、やはり頭の中でいちいち翻訳しなくてはいけない言葉がところどころ散りばめられている気がします。
これら3つの理由でのんびりとした「すず」の行動や綺麗な自然の風景、抽象化されたすずの頭の中の映像も飽きさせず、逆に頭をフル回転させて見続けなくてはいけ無いという部分がこの物語を見終わった時に疲れを感じさせます。
この物語最大の嘘は主人公の「北條(浦野) すず」である
この物語は全体を通してかなり史実に基づいていて作られているそうです。大通りのお店の位置も戦艦が来る日付や警報の鳴る日付も実際の物とのことです。 まるでそこに生きているような、現代に地続きの歴史として実際に存在していたような感じで描かれています。 アニメの表現として、指の細かい動きを表現すると心地よさを生み(「君の名は。」感想でも言ってますが)、その細かさがまた実在している印象を増幅させます。 しかしこの「すず」という人物の存在、もちろん全部嘘です。 そしてそれがこの物語のキモだと思います。
「すず」は萌え4コマの主人公?
私は個人的に日常系の物語が好きです。 そして日常系好きにはこの映画を勧めると思います。 なぜなら「すず」は日常系主人公のそれと同じだからです(ラストは違いますが……)。 この物語全体に日常系の空気を感じます。
その理由はスピーディーに進む時間軸の中で主人公の日常を切り取り、くすっと笑える部分を抜き出しているという点です。
これはまさしく日常系萌え4コマと同じです。
そして、私がここまで胸が苦しくなった理由の一つはこれだと思います。 「すず」に戦争中でも頑張って!幸せになって!と願ってしまうような愛らしさがあるからです。 だからこそ、起承転結の転である、あの事件でギュッと胸を締め付けられました。
「すず」は実は現代人?
すずは何度か水原に「普通だ」と言われています。 この「普通」とはいったい何でしょうか?
私の意見ではありますが、すずはあまりにぼーっとしすぎていて『戦時中に生きていなかった』のではないかと思います。
だからこその普通。
つまり、戦時中ではない世界の考え方を持ち続けているということです。
再会した時の水原は過去の恋慕だけではなく、そんな「普通」であるすずを見てホッと出来る居場所だと認識したのではないでしょうか。
また、「~~でよかった」「~~にならなくてよかった」 と言われ、「何が『良かった』だ!?全然良くない!」とすずの心理描写のシーンがありますが、生きてるだけで儲けものという戦時中の普通が受け入れられなくて悪態をついてます。 これはもう戦時中の価値観では無く私たち現代(戦争の無い時代)を生きている人の価値観です。
だからこそ感情移入がしやすいのではないかと思います。
「すず」は異常
そんな「すず」は食べ物が無くても少しでもを工夫して楽しく美味しくなるようギターを弾くように料理したり、絵をかいています。少しでも笑って過ごそうとしています。
食べ物が無くなりつつある戦時下、先の見えない世界でこんなにも楽しそうに生きられるでしょうか?
私なら無理です。
戦時中ではここまで何も考えないで幸せそうに生きる人は恐らくいなかったでしょう。だからこそのフィクションです。
これが仮にすずが実在したのならドキュメンタリーになってしまいます。
こんな萌え4コマ主人公の様な、現在人のような感性を持った、戦時中としては「異常な感性」を持ったすずが主人公だからこそ、「戦時中にはいない現代の感性」を持っている私はすずを応援し、すずに感情移入をしてしまい、こんなにも胸が苦しくなったのだと思いました。
そしてクライマックスのシーン。そんなすずも最後には気が付くと戦争に染まってしまっていた。それがまた戦争の無常さとしてダイレクトに自分の中に落とし込まれるのではないでしょうか。
「この世界の片隅に」は不朽の名作になれるのか
他の人の感想などを聞いていると、もうこの映画は日本映画史上で最も素晴らしいものの一つだと言われる程の感想をよく聞きます。
もちろん私も大賛成です。
しかし、物語というのは同じものでも見るべき時代というのがあります。現在エヴァンゲリオンがリメイクされていますが、昔のエヴァよりも今を生きる若い人たちには新エヴァを見た方が伝わりやすいですし、数々の過去の名作も昔見た時の画期的な印象は今の人が新しく見たとしても完璧に伝えることは出来ないと考えています。 それは「この世界の片隅に」にも言えるのではないでしょうか。
先ほども言ったようにすずの感性は現代の普通に通じる部分があると考えています。 この「現代の普通」というものが「次世代の普通」とは違ってきてしまったら、感覚がズレてしまったら、その時点でこの映画はただの戦争時代を描いた映画の一つになってしまうのではないでしょうか。 そうなるかならないかは現時点では誰にも分かりませんが……。
「この世界の片隅に」の感想まとめ
この物語はこれまでのよくある「戦争はいけないよ!」などというNHK的なメッセージはないように感じます。
日々を淡々と描いているだけです。
それでも私は反戦派になったとまではいきませんが、生きている間は日本を出来るだけ戦争状態にはしたくないと思わせるパワーはありました。
この話はただのフィクションではありますが生活の雰囲気は本物を基にしています。あの生活はしたいとは思わないです。
そして劇場では「すず」の生活は終戦直後で終わっています。「すず」にはこの先幸せになってほしいと心から思いました。
よく考えてみると時代設定が史実に沿った流れなので、すずが亡くなる時期は日本がバブルまではいかない、高度成長期のあたりではないかと思います。過去の戦時中から比べると日本が復興したなと最も感じられる時期ではないでしょうか。
そう考えると、すずはきっと幸せに死んでいったのかな?と考えると少し気が落ち着きます。
漫画ではどうなっているのでしょう?今度読もうと思います。
そして最後となりますが、一つ劇場中に気になった言葉があります。
「大事(おおごと)だと思っていた頃が懐かしい」
この言葉です。
現在は隣の韓国と不仲になったり、アメリカ新大統領の動向に関してのニュースが世界を飛び交っていたりします。
そんな今この状態のニュースが『大事だと思っていた頃』になってしまうことになるのではないかと、なんとなく予言された気がして怖い気持ちが湧き上がってしまいます。 この先何があるか分かりません。
とりあえず、今の幸せをかみしめようと思いました。
ついに見た「君の名は。」の感想と評価の分かれる理由
ついに見た「君の名は。」の感想と評価の分かれる理由
今更見た「君の名は。」の感想と良い悪い含めいろんな評価が出ているのはなぜなのかを考えてみます。
昨年8月公開の「君の名は。」が三ヵ月目くらいにはかなりの話題になり、世間一般に有名となってからさらに三ヵ月経った今、 やっと見ましたよ。
あまりに大勢の人がいいと言っているので、さすがに気になったので映画館に行ったのですが、見終わった直後の率直な感想を一つ。
『なぁ~んだ、結局みんなこういうの好きなんじゃん』 です。
よく評論などで使われている言葉を借りると『セカイ系』でしょうか、世界を救うお話です。
『セカイ系』という言葉は二人の関係が世界を変えるという感じなんですが、定義が曖昧なので深入りは無しで行きます。
「君の名は。」の2017年1月の映画館状況
映画館の状況ですが、さすがにもう客入りも少なくなっているようで、平日休みを利用して行きました。
2時間前に席を予約しましたのですが、なんとすべての席を選べる状態!
実際に劇場に入ってみると、上映開始直前に全く客がいないということは無くホッと一息。
全体的にパラパラと入っているくらいで客層もバラバラでした。
お一人様が十数人。
カップルも2,3組。ちなみに隣のカップルの彼氏は終演後寝ていました。
そして、私の後ろの座席には仲の良さそうな老夫婦が一組。 きっと「最近若い人たちで人気になっている映画でも見に行きましょうかねぇ、おじいさん」なんて会話をしたのだろうかと想像が膨らみました。
帰り急いで劇場を出なければ(膀胱の事情により)その老夫婦にインタビューでもしたかったです。
「君の名は。」を見る私のスタンス
私は事前に映画の内容を軽く聞いていました。
趣味の一つに「見てもいない映画批評を聞く」というものがあるのですが、恐らく批評だけで本編の三倍以上の時間をそれに充ててしまっていました。 知っていた内容は
・男女が入れ替わる
・時間が関係している
・物語の粗が結構ある
というあたり。 それと題名から察するに二人がやっとのことで出会うことができ「君の名は?」と問いかけて終わるということくらいでしょうか。
ブームの理由
ここまでのブームを引き起こしたのは物語自体が面白いことのほかにマーケティング戦略が素晴らしかったからだとも聞いています。
単純に映画を配給するだけではなく、数カ月にも分けて宣伝して、小説を出版してイベントを行って、RADを使い、SNSで拡散しやすい土壌を作ったことが要因らしいです。
実際に見た映画の感想
まぁ、素晴らしいですよね。
個人的に特に好きな点を4つほど上挙げさせていただきます。
<その1>序章
物語の導入部、三葉の田舎生活を紹介する会話劇の部分が好きです。
三葉の日常生活である田舎の風習への批判と都会へのあこがれというありきたり中のありきたりな話ですが、冒頭の謎を残しながらもテンポよく展開していて良かったです。
面白い映画というのは序章だけがずっと続いても面白いんじゃないかと思わせる作りでした。
<その2>音楽
やはりRADWIMPS最高です。
映画の為に作られた音楽といものはやはりいいです。しびれます。
あの物語中盤の2人の入れ替わる日常パート、カルチャー(ジェンダー)ギャップコメディ満載になって普通の監督ならそこで10分20分使ってしまい映画全体をだらけた感じにしてしまいそうですが、その部分をあえてダイジェスト形式にして疾走感満載でつづるというあの演出。
これによって後半の瀧君のモノローグも飽きさせることなく物語に入り込ませてくれます。 いいです。
<その3>伏線回収の速さ、分かりやすさ
この映画の魅力というか見終わった後のスッキリ感はここにあるのではないかと個人的には思っています。
「みんな~ここ伏線だからね~」と言わんばかりのあからさまなカットから、およそ10~20分ほどで伏線回収という小気味よさ。
具体的にいうと、
冒頭の三葉(中は瀧)のここはどこ?私は誰?から時間をすっ飛ばした翌日、「昨日の三葉おかしかった」という謎がありました。他の物語ではここでもう少し話を膨らませようとしがちですが、現代の利器であるスマホを使って比較的にすぐお互いの状況を把握するという伏線回収の速さでした。
瀧がいつもつけてる組紐も紐のアップでアレ?と思わせてからの三葉の回想へ入るので回収早いなぁと感じました。
細かい事柄でも、複数の箇所であからさまに伏線を用意し、分かりやすく説明されるとお話全体が分かったような気にさせてくれます。
ただ、先輩の最後の言葉「瀧君は私のこと好きだったのよね、でも他に~~」の部分はさすがに余計だなと、わざわざ言葉にして分かりやすくしなくてもいいのでは?と思いましたが。
<その4>アニメとしての映像の良さ
何よりも「君の名は。」は映像がいい。
作画というのでしょうか。
アニメの良さって何?と聞かれたときに挙げられる点でよく言われるものの一つに。 「日常生活を切り抜いて滑らかに動かしていること」ということがよく言われています。
なんでもない仕草だけれどもアニメとして動いていると見ていてとても気持ちいいものらしいです。 ジブリなどはその最たるものと言っていいでしょう。
具体例でいうと、何度も伏線として見せつけられていたので印象深いと思いますが、三葉の髪を結ぶシーンが挙げられます。鏡の前で三葉が赤い組紐を使って髪を結う姿です。
この何でもない動作ではありますが、滑らかに動かされている手を見ていると、それだけでなんだか心地がよいのです。
他に挙げると、三葉が道路で転んで転がるシーンや運動をしているシーン。 そして作画だけでなく撮影技術も素晴らしかった口噛み酒の舞のシーン。
これらを見ていると手間をかけたのだなと感じます。
もちろん綺麗で壮大な自然や都会の街並みの慌ただしさを感じさせる風景が素晴らしいのは言うまでもありません。
日本アニメの最高峰だと言えるのではないでしょうか。
なぜ「君の名は。」は評価が分かれるのか?
ここからは私の個人的な考察です。(これまでも個人的な感想でしたが……)
「君の名は。」はこれほど興行成績を上げているにもにもかかわらずなぜここまで賛否が分かれるのでしょうか。
私が見終わって初めに感じたこととしては、確かにこの映画はいい物語ですが、何か誤魔化された感が否めなかったです。
しかし、改めて映画を思い出してながら考えるうちに私の中で印象が変わってきました。
そもそも論として私は少女漫画(アニメ)と少年漫画(アニメ)は物語の主題としてこんな違いがあると考えています。
少女向け・・・関係性の変化
少年向け・・・状況の変化
これらの変化によって物語を回していくものが多いように感じます。(もちろん例外はたくさんありますが)
さて、それを踏まえて考えると、この「君の名は。」はどう見えてくるでしょう。
少年向けとして見てみると物語の進行が
「男女が入れ替わった」⇒「ある意味二重生活」⇒「突然入れ替わりが無くなった」⇒「会いに行く」⇒「時間がずれていることが分かる」⇒「状況の打破を画策」⇒「初めての出会い」⇒「物語の終演」
という大きく分けても入れ替わり、タイムスリップという複数の流れがあり、彗星という大きなミスリードがありなんだかごちゃごちゃしてしまっています。
物語を作る上でよく言われていることですが、大きな嘘を一つ作ってそれに合うように周りを現実的に埋めていくと作りやすいと言われますが、「君の名は。」では①入れ替わって②タイムスリップして、③彗星のかけらが同じようなところに複数回落ちるという天文学的に低い確率の奇跡(大きな嘘)がたくさん起きています。
それぞれの理由付けは確かにあるのですが、しっくりこないと言うか後付け感が凄いです。
一例としては二人の間のタイムラグは何故気づかないのかという問いに対して、目が覚めると記憶があやふやになるからといった理由付けはあります。
その他、無理矢理だなと感じた点にもしっかりと伏線などは用意されてはいます。
しかし、私個人の感想では「うやむやにごまかされている感がある」くらいで丁度いいと考えています。
なぜなら物語の主軸は先ほど書いた『関係性の変化』で見るとスッキリしているからです。
今度は少女向け、関係性の変化を重点として物語の進行を見てみると、
「男女が入れ替わった」⇒「お互いぶつかりながらもだんだん気になる」⇒「先輩の件をきっかけとして会いたいと思う」⇒「一瞬だけどやっと会えた」⇒「時間を超えて都内で運命的な出会い」
あらスッキリ。
「起」「承」「転」「結」とまではいきませんが、「起」「承」「転」「結」「結び」くらいにはなりました。
このとらえ方の違いが今回の賛否両論の答えではないかと思います。
状況の変化を中心に物語を追うとゴチャついていますが、二人の関係性の変化を中心に物語を追うと実にシンプルな恋愛物語になります。
そう、この物語はセカイ系に見せかけた、ただの少女漫画だったと考えると納得がいきます。
少年漫画として見ている方は物語の設定である「入れ替わり」「タイムスリップ」の必然性や論理的な説明を考えてしまい、細かい部分が気になって急激に冷めてしまうのではないかと思います。
「だって物語の重要な要素が破たんしてるじゃないか!」と反論したい気持ちはあるかと思いますが、「君の名は。」で描かれている主軸は「二人がすれ違う」ことと「人は忘れたりして、前の(昨日の)自分じゃないかもしれない」という部分です。タイムスリップの部分は物語を盛り上げるための舞台装置の一つでしかないからどうでもいいのかなと思います。(もちろん理由は細かい部分まで見ると分かるし、小説にはしっかり書かれているのですが)
その重要ではないということが顕著に表れている部分として次のシーンが挙げられるのではないでしょうか。
三葉の書いた日記が文字化けし始めて徐々にデータが消えていくという場面です。
単純なタイムスリップものとして考えてみます。本来なら三葉の日記は、初めから書いていなかった。記憶違いだった。記憶の中にしかなかった。気が付くと消えていた。などでも良かったはずです。
それをあえて、瀧君が気が付いて日記を確認した瞬間から徐々に消えていくというシーンにしています。これは、何かよくわからない世界の運命の力が働いた、抗えない不思議な力で三葉がいたという証拠が現実から消えて行った、ということではないかと思います。
もちろんこれは、ラストシーンで「君の名前は?」と問いかけなくてはいけないので後々邪魔になる記録の部分を消してしまおうという進行上やむを得ない演出だったとも言えますが、私はこのシーンを見てこう感じました。
『SF的設定とか細かいことは気にするな』という暗示ではないのかと。
この物語はこういうものだ。黙って続きを見ておけよ。そんな細かいことよりも二人がどうなるのか気になるだろ?
という制作者側からのメッセージとして私は受け止めました。これが受け入れられると全く問題なく物語に入り込めるでしょう。
そして最後に先輩との淡い恋が確実に終わったというあからさまな伏線回収を指輪のアップから教えてくれ、会えそうで会えないという少女漫画として一番盛り上がる部分をテンポのよい音楽と共にすれ違いラッシュでハラハラさせてくれます。
「君の名は。」の感想のまとめ
・設定を見ると少年向け、中身は実は少女漫画。
・新海監督のインタビューを聞くと主体が三葉、語り部が瀧君と言っている。その割には、進行上どうしても語り部並みに三葉メインの話が多くなってしまっている。
・話がゴチャついているが設定が一応筋は通る。
このような状況から完全に少年向けでもなく、もちろん少女向けでもない絶妙なバランスを取っているので万人受けしてしまったのではないかと思います。
ただ、惜しむらくはこれを是非10代のうちに見たかったということでしょうか。 私が10代だったなら男子でも女子でも最高!といえたのかもしれません。
もう若者ではない私から言えることは、最後の方のシーンの、「あの旅行は何がきっかけで行ったのか覚えていない」という瀧君のモノローグがありますが、これは実際にあるということです。
人生の一大イベントだろうとも忘れる物は忘れるし、過去の自分と今の自分は連続していない気分になることが実際にあるよということだけはお伝えしておきます。
ちなみに、ずっと誰かを探している気はしません。